藤田浩一|音楽プロデューサー

INTERVIEW

インタビュー
生前の藤田氏へのインタビュー記事を集録します。

2002年1月10日
「EVER LASTING SUMMER S.KIYOTAKA&OMEGA TRIBE  COMPLETE BOX」封入ブックレットより

<オメガトライブ>のコンセプトは、リインカーネーション(輪廻転生)です


__藤田プロデューサーの音楽的背景についてお聞かせいただけませんか。


藤田:私は幼い頃からヴァイオリンを演奏し、クラシック音楽に親しんでいました。そしてエルヴィス・プレスリーやポール・アンカでポップスに目覚めた後、ビートルズの出現に衝撃を受けギターを弾くようになります。1960年代の中期はG.S.ブームの中、<アウトキャスト>のメンバーとして活動し、作詞や作曲も手がけるようになりました。そして1970年代になるとブリティッシュ・ロックやモータウン・サウンドに傾倒しました。


__藤田さんは<レイジー>や<角松敏生>をプロデュースしておられましたが、その後、<杉山清貴&オメガトライブ>の前身<きゅうてぃぱんちょす>とはどのようにして出会ったのでしょうか?


藤田:当時、私は自分の目指す音楽を表現することができるグループを探していました。1980年代の初期、日本には洋楽を聴いてきた自分にとっての聴きたい音楽がなかったのです。私が目指したのはA.O.R、ブラコン、フュージョンの要素を持つ日本のポップスであり、海の香りのする都会的なサウンドを作りたかった。丁度そんなとき、ヤマハのポプコンで<きゅうてぃぱんちょす>を見る機会があったのです。後に<杉山清貴&オメガトライブ>となるメンバーで構成された<きゅうてぃぱんちょす>の演奏力は当時の彼らの音楽を演奏するには申し分のない水準でしたし、何よりも杉山君の強力なヴォーカルに注目しました。しかし、ヤマハのカラーに合わなかったのでしょう、優勝できなかった彼らをこのまま埋もれさせるには惜しいと思ったのです。そして<きゅうてぃぱんちょす>のメンバーには、それまで彼らが演ってきた音楽とは全く違う音楽になることを了解してもらいました。私の考えた音楽によって洋楽のリスナーを引き込むことが当初の狙いでしたが、歌謡曲のマーケットも、文化的な成長が著しかったあの時代なればこそとも言える、入り込む余裕があったのだと思います。


__作曲家、林哲司の起用についてお聞かせ下さい。


藤田:以前から林さんのメロディ・ラインやリズムアレンジに魅力を感じていました。当時、新しいA.O.Rサウンドを模索していた私にとって、要求を満たしてくれそうな作曲家は林さん以外に考えられなかったのです。期待通り、林さんは私が明確な理由をもって要求する事柄については、いつも大変ピュアな姿勢で答えて下さった。林さんと私の信頼関係は<杉山清貴&オメガトライブ>のプロジェクトの中で大変大きな比重を占めているのです。


__<オメガトライブ>というグループ名の由来はいかなるものなのでしょうか?


藤田:関わった人達それぞれが、そしてファンに皆様もいろいろな解釈をなさっていると思いますが、私の中では<輪廻転生>という意味合いを持っています。始まりは終わりであり、終わりは始まりでもある。20年近い歳月を経た今、再び注目していただける機会が与えられたことが、そのままこのグループ名のコンセプトなのです。


__藤田さんはレコーディング・スタジオでもかなり厳しいプロデューサーっであったと聞いておりますが…


藤田:バッキングに関しては、洋楽ファンが抵抗なく入ってこれるように非常に高いレベルを要求しました。具体的に言えば、各楽器の音色はもちろん、グルーブ感、テンション・コード、ハイセンスなリズム・パターン等は挙げられます。従って、スタジオ・ミュージシャンの起用も致し方なかったのです。そしてバックのサウンドを固めた後は歌入れです。表現者としてリスナーへ歌詞の世界を的確に伝えるために杉山君にはいろいろとアドバイスしました。サウンドはあくまでもヴォーカルをバックアップするためのものであり、大多数のリスナーにとっては歌詞の世界の方が重要だからです。録音後のトラック・ダウン、そしてマスタリング作業でも細部にまでこだわりましたが、ここでの成果は当時の担当エンジニアだった清水邦彦氏の力によるところが大きかった。


__アルバムのプロデュースにおいて苦労なさったことはありますか?


藤田:まずアルバムの核となる林さんの曲は、初めからアレンジを含めて作られるので作曲とアレンジは切り離せない。そして杉山君を中心とするメンバーの曲は松下(誠)さんや志熊(研三)さんに林さんのカラーに近いアレンジをお願いすることによって林さんの曲との統一感を持たせるように注意しました。林さんの曲以外にメンバーの曲を入れたのは、杉山君にとっては自分たちのメロディの方が歌いやすかろうという配慮からです。次に、サウンド以上に気を配ったのはアルバム全体に流れる詞の世界に一貫性を持たせることです。これに関しては康珍化さん、秋元康さんを中心とする作詞家の皆さんが本当に素晴らしい世界を描いてくださったと思います。


__藤田さんにとって一番印象に残っているアルバムは?


藤田:毎回、その時点でのベストを尽くしているので、敢えて選ぶことはできませんが、特別な思い入れがあるのは組曲「NEVER ENDING SUMMER」です。この曲は当時私の最愛の人に宛てた私的な手紙で、ラヴ・ソングという形式を借りて伝えたいメッセージを託したのです。他のアルバムも全て水準以上のものができたと自負していますが、後期になると、完成された林さんの曲以外に、メンバー作品にも素晴らしい曲が増えてきました。そう言う意味では『ANOTHER SUMMER』は全体のメッセージは稀薄ですが完成された楽曲の集まったバラエティに富んだアルバムだと言えます。アルバム・ジャケットについてはサウンドのイメージを追求するとあのようになりました。リスナーにとっても自由にイメージが拡がるので良かったのではないでしょうか。


__藤田プロデューサーにとっての<オメガトライブ>とは?


藤田:実に抽象的な話しですが、人間には第六感というものがあります。あたかも自分自身のDNAと対話できたかのような感覚、これを感じた時、人は自信を持っていろいろな事ができるのです。私にとって<オメガトライブ>での仕事がまさにそういう時期でした。プロデューサーとして言うならば、<杉山清貴&オメガトライブ>の世界は完成しました。もし更に続けていれば、それなりに別のアイデアはあったと考えられますが、康さんも林さんもそして杉山君本人もここで燃焼し切ったと私は思います。当時を振り返ると眠る時間もないほどのスケジュールに加えて、プロデューサーとしての立場上起こる摩擦や事務所の社長としての心労はハードなものでした。そのような状況でのメンバーによる解散の決定はプロデューサーとして冷静に受け止めました。始まりがあれば終わりはあるからです。メンバーはそれぞれの活動を始めますが、各人の人世にとって<オメガトライブ>は大きな部分を占めているはずです。それは私にとっても同じことです。ここで皆にとって原点である<杉山清貴&オメガトライブ>が再び聴いていただける機会を得るのは実に幸せなことです。これこそが<輪廻転生>という<オメガトライブ>のコンセプトなのです。当時のファンの皆様はもちろん、当時を知らない若い人たちにも、この<海の香りがする都会的なサウンド>と<日本語にまだ力があった時代の詞の世界>を聴いていただきたいと思います。


インタビュー/2002年 1月 10日

聞き手・構成/近藤正義, 高島幹雄(Vap)

「EVER LASTING SUMMER S.KIYOTAKA&OMEGA TRIBE COMPLETE BOX」封入ブックレットより

2004年12月5日
「1986 OMEGA TRIBE CARLOS TOSHIKI&OMEGA TRIBE  COMPLETE BOX "Our Graduation"」封入ブックレットより

音楽制作も 一つの物語


__"1986オメガトライブ"が誕生した経緯をお聞かせ下さい。


藤田:まず、1985年に"杉山清貴&オメガトライブ"が解散しています。杉山(清貴)君はソロ活動を開始することが決まっていて、他のメンバーの中で続行を希望していた高島信二(g)と西原俊次(key)の処遇を考えていたところへ、同じく私のプロダクションで菊池桃子の(コンサートにおける)バンド・マスターをしていたギタリストの黒川照家に手伝ってもらうことにしたんです。カルロスは友人の紹介で一年程前に既に知り合っており、いずれ何らかの形でデビューさせるつもりでヴォーカル・レッスンをしていました。その時はまさか"オメガトライブ"としてデビューすることになるとは考えてもいませんでしたけどね。


__リズム・セッションを正式メンバーにもたない、いわゆるユニットの形態をとったのは何故でしょうか。


藤田:それは時代に合わせたサウンドの変化に対応するためです。"杉山清貴&オメガトライブ"の頃はボビー・コールドウェル、ルパード・ホルムズ、ボズ・スキャッグスといったLAのAORが基盤にあったんですが、外国人であるカルロスならもっと洋楽っぽくても様になるだろうと考え、E,W&F、デヴィット・フォスター、そしてマイケル・ジャクソン、パティ・オースティンを輩出したクインシー・ジョーンズといったダンス・ミュージックへ移行したんです。丁度、レコーディング現場もデジタルへの過渡期で打ち込みによるリズムを多用し始めた時期でもあり、敢えてユニット形態にしたんです。逆にライヴでは本物のグルーヴにこだわり、ウォーネル・ジョーンズ(b)とマーティー・ブレイシー(dr)に参加してもらっていました。彼らをリズム・セクションとして使えたのは本当に贅沢なことでしたが、絶対に譲れない部分でしたね。


__曲作りも和泉常寛(作曲)、売野雅勇(作詞)、新川博(編曲)という新体制になりましたが、その人選も藤田さんによるものですよね。


藤田:そうです。本当に皆さんは制作面での私のわがままに対して熱心に取り組んでくれました。他にも素晴らしいスタッフが多数参加していますが、特に彼らは私のこだわりに一緒になってのめり込んでくれたんです。ミキシングは私とエンジニアで行いましたが、ここで作り出したサウンドには今でも自信を持っています。


__ジョーイ・マッコイの参加について聞かせて下さい


藤田:その前に黒川照家が脱退するんですが、ステージのヴィジュアルとしてやはりもう一人メンバーが必要だと感じたんです。そこで、レコーディングやライヴのコーラスにいつも参加していたジョーイを正式メンバーにしたんです。私がジョーイのヴォーカルに求めたものは、きっちりと歌うカルロスとは対照的なラフでフォルっぽいスタイルです。


__数あるアルバムの中で強く印象に残っているものはなんでしょうか。


藤田:やはり、ミュージック・テープだけで「"DAYLIGHT" VERSION」と、LPとCDの「"NIGHT TIME" VERSION」という2タイプのミックスで作った「DOWN TOWN MYSTERY」ですね。当時の私は忙しくて毎日3時間程しか眠らない生活をしていたんですが、起きている時間が長いと昼と夜で違う音楽を欲するようになるんですよ。そこで私自身、音楽はアルバム単位で聴く習慣がありましたので、シングルだけではなくアルバム全曲を2ヴァージョンで作ろうと思ったんです。自分の欲しいものが世の中になくて、もし自分がそれを作り出せる立場にあるのなら是非やってみるべきでしょう。


__"カルロス・トシキ&オメガトライブ"解散の真相はどういう経緯だったのでしょうか。


藤田:アルバム『natsuko』の制作時にはもう解散の予感はありました。曲の選定でカルロスと意見が合わなくなってきたんです。どのような原因や情況であれ、それはカルロス自身の成長であり変化ですから仕方がありません。中途半端に妥協するくらいなら全部任せたほうが良いと思いましたので『natsuko』の制作に私はほとんどタッチしませんでした。メンバー間でも不協和音は生じていたようです。だから解散はごく自然な成り行きでメンバーたちも静かに受け止めたと思います。


__"1986オメガトライブ"と"カルロス・トシキ&オメガトライブ"の活動を振り返ってどのような感想をお持ちでしょうか

藤田:あの時代に密着した実にやり甲斐のある仕事ができたと思います。協力してくれたスタッフや応援してくださったファンの皆様に感謝します。音楽は時代が良くなければ、言い換えれば生活に余裕がなければ楽しめないものです。バブル経済と重なるこの時期は音楽にとってたいへん良い時代であり、"オメガトライブ"の曲にもあの頃の世の中の勢いやときめきに溢れた空気感がパッケージされています。音楽制作も一つの物語であって、始まりがあれば終わりもあります。私はその中で全てを出し切れた満足感でいっぱいです。

インタビュー/2004年12月5日

「1986 OMEGA TRIBE CARLOS TOSHIKI&OMEGA TRIBE  COMPLETE BOX "Our Graduation"」封入ブックレットより

ページトップへ戻る